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てげてげブログ
2012-08-04

416) ベトナム旅日記ー8 (3日目:世界遺産ミーソン遺跡)

  朝、ホイアンを出発、山間部に向かってバスで約1時間。バスを降りて森林の中を歩くこと約15分、そこには世界遺産ミーソン遺跡がひっそりと佇んでいた。

(世界遺産ミーソン遺跡)
  ミーソン遺跡は、12~15世紀、ベトナム中南部で外国との交易で栄えたチャンパ王国時代の宗教寺院の遺跡である。チャンパ王国の中心的聖地として、ヒンズー教のシヴァ神が祀られている。4世紀に最初の伽藍が建てられたが、木製であったため早くに喪失している。7世紀頃からレンガ作りの伽藍が登場してくる。8世紀、9世紀が一番盛んであった。13世紀までに70の伽藍が作られた。この遺跡は20世紀の初頭に、ジャングルの中から発見された。
  しかし残念ながらベトナム戦争でその多くが破壊されてしまった。着々と侵攻する北軍にフエやダナンをとられた南ベトナム軍は総攻撃をかけて奪回しようとする。特に米軍による空爆が中部地方を襲った。北ベトナム軍の兵士はミーソン遺跡に隠れる。空軍は容赦なくミーソン遺跡を襲った。この時、ほとんどの遺跡が瓦礫と化した。枯葉剤も蒔かれ密林が消滅したという。
  現在の遺跡は、壊されたレンガを使ってその一部を修復、復元したものである。伽藍の周囲には今でも空爆の後の大きな穴が残っているし、伽藍の内部にはその時の不発弾が陳列してあった。遺跡全体から受ける雰囲気には、カンボジアのアンコール遺跡に通じるものがあった。

(チャンバ王国の歴史)
  チャンパ王国はチャム族が紀元2世紀頃からベトナムに築いた王国である。チャンパ王国は一つの国家ではなかったというのが定説となっている。いろんな部族がいて、一番権力のある者が王の中の王として君臨していたという。
  海の民として活躍し、香木(伽羅)を交易の中心としていた。非常に好戦的な民族で、10世紀頃からは戦いの歴史が続く。得意の水軍は北へ西へと縦横に活躍し、海賊行為も行っていた。その後、チャンパ王国は黎朝の進出を許し、これに敗れて1471年に滅亡した。しかしチャム族はその後もマレー系の国に入り、軍人としてその軍事的能力を生かして活躍した。


  ホイアンに戻って昼食。午後はホイアンを発ち、バスで古都フエへ向かう。以下、途中の風景を拾ってみる。
〇戦没者墓地 : 田んぼの中にきれいに整備された戦没者墓地が点在している。ベトネム戦争での戦没者300万人を祀っているという。ガイドが呟いた一言が印象にのこっている。曰く「日本はアメリカに負けたけど、ベトネムはフランスにもアメリカにも勝った」と。
〇自然冷房 : 暑いのに民家の戸口や窓が開放されている。電気料金が高いため、クーラーをつけている家は2割程度で、ほとんどが自然冷房だという。道端のレストランも自然冷房だった。
〇リゾート施設 : 海辺には高級なリゾート施設が続いていた。しかし金持ちしか縁のない施設だという。社会主義国とはいえ、貧富の差は相当に大きいようだ。中には倒産したらしきリゾート施設もあった。
〇結婚式場 : ダナン郊外に大きな結婚式場がいくつかあった。1000人も収容できるという。新郎新婦の知らない人、全く縁のない人も参加するという。食事と軟派をするのが目的らしい。
〇トンネル : 海沿いのハイバン峠の道は、急峻で曲がりくねっていて、車が海に転落する事故が相次いでいた。ODAで日本の建設会社が、山をぶち向いて6キロのトンネルを作ってくれた。非常に助かっている・・・と、これはガイドの話。なるほど日本のトンネルと同じような造りだった。
〇道端のお店 : 貧しそうな村落をいくつも通り過ぎる。道の両側には小さなお店が連なる。バイク修理屋、自転車修理屋、建材屋、食堂など。 (2012.08.04)

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