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てげてげブログ
2013-03-25

454) 中欧を旅する(11)

  今回の中欧の旅を、10回に分けて記録してみた。折角の中欧の旅の思い出が、早々と忘却の藻屑になることを幾分かでも防げるのではないか、また妻との会話の中にそれが生き残っていく助けになるのではないか・・・そんな思いから綴った記録である。
  最後に、旅全体を通じて感じたことを、思いつくままにいくつか並べてみたい。

          〇石の街
  建物も道路も石で出来たヨーロッパの古い街は、鉄とコンクリートとガラスの現代建築よりもずっと情緒があって、私自身は大好きである。しかしその景観を残すために、苦労も大きいようだと感じる。
  古い建物の外壁の破損が著しい建物が少なくはない。石で出来た外壁の一部や表面が剥げ落ちている。街の中でも多くの建物が、歩道に工事用の庇を儲け、壁全体に防護用の覆いをかけて補修工事をしていた。特にプラハにはそんな光景が多かったような記憶がある。
  また、現代の車社会の中で、今更駐車場を設けられない街の構造に深い悩みがあるように感じられた。道路は縦列駐車の車であふれている。2車線の道路の両側に車が縦にずらりと並び、真ん中の1車線だけが残って、そこは一方通行になっている。そんな道路をあちこちに見かけた。自分の車を駐車する場所は決まっているのだろうか。車がさらに増えたらどうするのだろうか。

          〇各地の印象
  今回の最大の目玉プラハは、期待が大き過ぎたためか、やや期待はずれだった。街が他の街に比べても最も古びていたことや、ホテルへの行き帰りに何回もダウンタウンを見たことが原因かもしれない。タクシーが怖いというガイドの説明も影響したかもしれない。
  ブタペストは心地よい印象を与えてくれた。特に夜のドナウ川クルーズは素晴らしかった。次々に目に飛び込んでくる、あの光の光景は忘れられない。
  ウィーンについては、大きくて整った街という以外には、これといってあまり強い印象が残っていない。
  ブラチスラバやチェスキークロムロフといった小さな町の方が、プラハやウィーンなどの大都市よりもかえって印象が深かった。

          〇発電
  風力発電や太陽光発電に力を入れている様子がよく窺えた。そこには国家の意思が入っているのだろう。

          〇料理
  料理は全般にあまり美味しくなかった。参加したツアーが廉価なものだったからこれはいたし方なかったのかもしれない。なかで、ホテルの朝食は総じて美味しかった。

          〇時差ぼけ
  帰国してからの時差ぼけがひどかった。歳をとると回復が遅くなるのかもしれない。

          〇歩行
  旅行中、よく歩いた。万歩計に気が付いたのは2日だけだったが、2万歩と1万6000歩。その他の日も負けずにあるいているとすれば合計何万歩になるのか。高齢者は足から弱ってゆく。我々夫婦がこんな旅行に参加できるのはあと何年だろうか。歩けるうちにまた参加したいものである。

          〇共産国家時代との比較
  20数年前、共産主義国家末期の時代に、この地方を旅行したことがある。その当時の記憶をたどってみたい。
  当時、飛行場や見晴らしの良い要所要所には機関銃を構えた軍人が大勢いた。頭上から銃身を向けられている時の気持ちはいいものではなかった。
  入国、出国の検査は厳重だった。飛行場では窓のない個室に一人ずつ引っ張り込まれて、身体検査を受けた。このままどこかに連れ去られるのではないかと不安に思ったものである。
  国境の検問所は厳重で、必ずバスが止められた。兵士が車体の下などを覗き込んで検査し、バスの中には銃を持った兵士が乗り込んできて検査を受けた。今は何処が国境かもよく分からないし、何の検査もない。
  土産物屋の非効率さも印象に残っている。数を数える人、包装する人、計算する人、料金を受け取る人・・・と店員の役割が決まっていてお互いに手伝いはしない。ゆっくりマイペースでやるから各担当の所に行列が出来る。集合時間に間に合わないため買うのを諦めた記憶がある。あれは少ない仕事をワークシェアリングしていたのだろう。
  行列といえば、共産党政権末期の時期でもあり、物資不足が相当に進んでいたのだろう、モノを買うために、あっちこっちの店の前に行列が出来ている風景もよくみた。  
  街角のあちこちで貨幣を交換する闇屋がすりよってきた。公式のレートと闇のレートの違いが大きくて、闇で交換した証明書のない紙幣は、その国で全部使い切らないと紙くずになるという話だったように記憶している。 
  今回の旅行を契機に、昔のことを色々思い出している。      (2013.03.25) 

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